光圓寺(こうえんじ)
真宗大谷派 本山は京都の東本願寺(真宗本廟) 山号は宝池山(ほうちざん)
ご本尊は阿弥陀如来
お参りいただいた時には、合掌し「南無阿弥陀仏」とお称えしましょう。
新潟県新潟市江南区沢海2−14−8 (沢海はそうみと読みます)
歴史 沿革
享禄年間(1528〜1531)に、当国本庄(今の新潟県村上)に創立。
寛永六年(1629)に、越後蒲原郡の城下町沢海の地に移る。
沢海に溝口家一万四千石の城下町が出来て十五年目の時にあたり、初代藩主の厚意によりお城の西方侍屋敷に囲まれた一画に寺領二千坪の用地(現在の境内地から数百メートル離れた地)を得て堂宇が建立された。六世住職の時代であった。
貞享四年(1687)に沢海藩は四代で廃絶となり、それ以後は天領となる。現在の境内地には代官所陣屋が建てられ二十年、その後は旗本六千石の小浜氏の知行所として百六十二年が経ち、幕府は崩壊し明治となる。
この現在の境内地は明治二年に民間に払い下げられたものを光圓寺にて買い受け移転する。
元禄七年(1694)に再建された本堂(現在の地に移転前の本堂)は、明治まで百七十余年を経過していたが、本山の現如上人が北海道開拓の名を受けたこともあり、その本堂は解体され海を渡り、真宗大谷派札幌別院として再建された。なお現在も札幌別院の地にその本堂が置かれています。
総門は安政年間(1854〜1859)、宗祖親鸞聖人六百回御遠忌法要記念に、出湯金屋の資産家五十嵐甚蔵氏の寄進によって建立されたものであり、現在当寺おいて一番古い建造物で、旧境内地より明治のはじめに移築したものである。また、梵鐘は銘に宝永六年(1709)四月と彫られていたが、昭和に供出されて今は二代目である。
現在の本堂が造営されたのは、明治四十年(1907)である。棟梁は、当時越後一と云われた名伽藍師、来迎寺の長谷川熊平で、翌明治四十一年に完工した。この造営資金のほとんどは豪農伊藤家の寄進によるものである。
光圓寺 僧侶 村手淳史
新潟生まれ新潟在住。昭和五十四年生まれ。
令和4年に第20代光円寺住職となりました。
お寺の法務にたずさわりながら、光圓寺のホームページを運営しています。
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