top of page

光圓寺は、真宗大谷派の寺院です。宗祖は親鸞さまです。

仏教の教えていること、親鸞さまのお言葉、教えとなった言葉を

まとめております。(随時更新中)

易行道(いぎょうどう)

◯努力を超えた道が易行道なのであって、決してわずかな努力でというようなものではないのです。努力を超えた道、人間の力のいらぬ道、仏に動かされていく道、それを易行道というのです。

/仲野良俊『正信偈講義』

◯​​​​易行道というのは、褒められて出てきたわけではないので す。叱られて出てきている、それが大事です。お念仏の道などというものは、叱られるような人間の道なのです。お念仏の道というのは、なにも拍手喝采で出てきたわけではない、褒められて出てきたわけではない、ああ立派だというそんなものではない。 ということは、これは人間の挫折です。念仏というものは、人間の挫折を通して初めて出遇えるのでしょう。褒められるような立場にいては、念仏には遇えないということでしょう。

/仲野良俊『正信偈講義』

◯不思議なもので、目が開くと目が開いた人が見えてくる。 目が開かないうちは目の開いた人はわかりません。信を得て初めて信をもった人がわ かってくる、そういうものです。非常に激しい努力を通して、初めて努力以上の世界が見えてきた。そうしたら、名も無いごく普通の人々の中で、念仏でちゃんと同じ世界にいる人々があった。それが見つかったわけです。そこに易行道というものが開けてくるもとがあるわけです。

/仲野良俊『正信偈講義』

◯曇鸞大師は龍樹菩薩の易行道というものを、今度は自分の言葉で易行道とはこういうものだと言い換えられています。易行道ということは、わずかな努力でいいというようなものではない。他力の道なのだ。仏の力で仏になっていく。自力とは何かというと、人間から仏へという道です。人間を立場にして、発願して仏へ向かっていく。それが難行道、自力なのです。

/仲野良俊『正信偈講義』

◯仏からの道が他力です。仏から来た道であるがゆえに、自ら仏になってゆく。これほど確かな道はない。易行道ほど確かな道はない。

/仲野良俊『正信偈講義』

◯目玉さえあったら果たして見えるかということです。目を開いておきながら見えないことがありますね。ぱっちり目を開いておっても見えないこともある。そうすると、見る力というのは一体どこにあるのか。それは生命にあるのでしょう。生命というのは働きです。働かないなら、これはもう死んだということです。

/仲野良俊『正信偈講義』

回向(えこう)

◯例えば道をなんの気なしに歩いているでしょう。そういう時突然、あ、逆さまにきておったとハッと気がつくことがある。ハッと気づいた途端に足が回ります。自覚の力というのは偉いもので、転回を起こしてくる。足はくるっと回ります。気がついて、それでもまだ二、三歩歩くのは、どうかしています。逆さまへ歩いていたと気がつくことが大事なのです。自覚には必ず廻ということがある。こういうのを廻心という。そこに転回するとともに、今度は逆の方向に向かっての歩みが始まる。これを向こうという。それで廻向なのです。

/仲野良俊『正信偈講義』

往環二回向(おうげんにえこう)

◯往というのは、お浄土へ向かうということです。お浄土へ向いて往い く。それから還は、私たちがお浄土へ向かうと、浄土の光をいただくとこができる、その光を一つの力にして、また逆にいわゆる生死の世界へ、穢土といってもいいですが、そこへ悠々と身を投げ出していける。浄土を得たことによって、浄土の光をいただく。浄土の光をいただくと、それを力にして、迷いの世界へ身を投げ出して喜んで苦労ができるということでしょう。これを還という。

/仲野良俊『正信偈講義』

◯ほんとうに助かったら、ほんとうに助かったというのが往相廻向です、ほんとうに助かったならその力で、助からない世界、苦労のつきまとう世界、そういうところへ明るく身を投げ出して、そして喜んで苦労できる。そうなってこそ初めてほんとうに助かったのだ、こういうことが教えられているのです。「御和讃」に「往相廻向の利益には、還相廻向に廻入せり」とおっしゃてある。だから助からない世界へ悠々と身を置いていけるのは、助かった一つの利益なのです。助からないままに、そんな助からない世界へ出かけていくわけにはいきません。逃れたくて逃れたくて仕方がないのです。ほんとうに助かるというと、逆に生死の世界へ身を投げたしていける。

/仲野良俊『正信偈講義』

◯自分を大事にしていくのが往相廻向、そして他を大事にするということが還相廻向。そこに念仏の生活というものがある。

/仲野良俊『正信偈講義』

+往相廻向(おうそうえこう)

◯例えば道をなんの気なしに歩いているでしょう。そういう時突然、あ、逆さまにきておったとハッと気がつくことがある。ハッと気づいた途端に足が回ります。自覚の力というのは偉いもので、転回を起こしてくる。足はくるっと回ります。気がついて、それでもまだ二、三歩歩くのは、どうかしています。逆さまへ歩いていたと気がつくことが大事なのです。自覚には必ず廻ということがある。こういうのを廻心という。そこに転回するとともに、今度は逆の方向に向かっての歩みが始まる。これを向こうという。それで廻向なのです。穢土に向かって歩いていた足が、浄土に振り向いて進められてくる。それを往相廻向という。

+還相廻向(げんそうえこう)

◯還相廻向というのは、生死の世界へ、いわゆる迷いの世界、苦労の絶えぬ世界、そういう世界へ身を投げ出していくということですから、やはり一つの生死の形をとるわけです。ほんとうに助かったということはどういうことか。ほんとうに助かったということは、助からない世界に身を投げ出していけるということが、ほんとうに助かったことだと、そう言われるのです。苦労が嫌だというのなら、これは助かったことにならない。どんな苦労をしてもよろしいというのがほんとうに助かったことです。

◯俺が還相してやろうとそういうようなものではない。還相というのは、意識的なものではないと思います。知らず知らずに動かされているという、そういうことがある。だから自利利他と言っても、決して意識的なものではない。他を利そうというような意識を超えて、事実としてちゃんと他が利せられてくる。人を助けようという意識を超えて、人が助かる。助けるのと助かるのとは違います。

/仲野良俊『正信偈講義』

横超(おうちょう)

◯他力によって、初めて、断ち切れない娑婆が夢と知らされる。知らされるのです。自分で知るような甲斐性はわれわれにはありません。念仏によって初めて知らされる。どんなに確かに見えていても、娑婆は夢だと知らされる。そこに息苦しいこの娑婆に何か一つの涼風が吹いてくる。そういうのを横超というのです。

◯横超を言い換えると、根が切れるという事です。因を切る、迷いの因の始末をつける、それが横超なのです。我々は迷いの状態をなんとかしようとかかっているけれども、迷いがどこからくるのかという、その因を切る所に横超が成り立つのです。迷いの因は、無明です。無明というのは自分を知らないことを無明と言います。無明が破れることによって心の中に一つの明かりが差してくる。そうすれば「罪悪も業報を感ずることあたわず」です。

◯そのままのお助けというのは、そのままになっていれば助かるということではありません。そのままが本願のおぼしめしであったということがお助けになるのです。偉いものにならなくても良いのです。立派な心がけを持たなくてもいいのです。お米で言ったら早稲と晩稲とがあるようなもので、晩稲が何も怠なまけている訳ではないのです。そういう風な生き方をしなければならないように生まれているわけです。それぞれがそのままに光っているということを横超と表しているのです。

/仲野良俊『正信偈講義』

 

憶念

◯われわれが仏を憶念できるということの元には、われわれが仏を念ずるに先立って、はや仏がわれわれを念じておるということがあります。仏の深い憶念の中にわれわれはいるわけです。だからして仏を念じることができる。(仲野/正信偈講義)

◯私が忘れても、仏が忘れないのです。われわれがどんな心を起こしていてもかまわない。それは仏の憶念の中にいるからでしょう。仏の憶念の中にいるから、どんな心が起こっても差し支えがない。人間が決めたのではない、自然に決まっている。そういうのを他力というのです。

/仲野良俊『正信偈講義』
 

教え

教えというものは、教えがいくらあっても、教えられる人がいなかったら、生きた教えにならないでしょう。教えが本当の教えだと証明する人は、教えられた人です。

/仲野良俊『正信偈講義』

聖道門(しょうどうもん)

私たちが修行を積み善根を積み聖にまでなっていく道です。いろんな煩悩をもち、いろんな過ちを犯し、思い悩んでいる凡夫が、仏法を学び、仏法を実践し、善根を積み、向上していく道です。言うならば、それは美しく清らかで強い人間になっていく道です。そこには、人間が本当に強い志を持って仏道に努めれば、人間はみんな清く美しく正しい存在になれるという、またならなければならないという人間に対する見方が根っこにあります。

/宮城顗『私にわかる浄土真宗』

真実(しんじつ)

真理が私の事実になるということです。「真理が私の身の上に事実となってはたらく。そして、この私を歩ませる」ということです。

/宮城顗『私にわかる浄土真宗』

方便(ほうべん)

方便というのは、嘘も方便と言いますから、真実でないことのように思いますが、真なるものを実にする歩みです。真の教えというものを、私の事実、私の生活の事実にまで開いていこうということです。どこまでも人間に近づき、それがどんなに愚かしいことであっても、人間の事実の中、その事実にかかわり、そして人間の生活の上まで到達するということが方便です。

/宮城顗『私にわかる浄土真宗』

bottom of page